映画『エイリアン』‐幼い私にとって『エイリアン』とは「シガニー・ウィーバーが半ケツ姿を晒してくれる映画」だった‐

『エイリアン』をはじめて観たのは小学校低学年ぐらいのころだろうか。

 

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なにぶん大昔のことなので記憶が定かではないが、いずれにしてもまだ私がちいさなおこちゃまであったことは間違いない。おそらくテレビの洋画劇場で放送されていたのを鑑賞したはずだ。

そんな先日、午後ローで放送されるってんで録画してものすごくひさびさに観てみた。

んで、こりゃあホラー映画の金字塔的傑作である、ってなふうにあらためて実感した次第であるが、

「やたらと威勢のいい黒人男性クルー」

とか

「ああ、そうだ。このおっさん、アンドロイドだったんだな」

とか

「宇宙の彼方へ豪快に吹っ飛んでゆくエイリアン」

などなど、ストーリーが進んで行くにつれて記憶の片隅に残っていたキャラクターやら数々の名シーン等がいちいち蘇ってきて二重の意味で楽しめた。

さらに今回鑑賞して気づいた点としては、劇中において最低限程度にしか音楽が使用されていなかったことである。

ところどころのシーンで音楽は流れるものの、音楽が使用されていないシーンのほうが

「あー、こうなるんだったな」

といったふうに、より記憶に残っていた。

静寂の中でエイリアンが襲ってくるからこそ子供心に不気味さを感じたのだろう。

そういえば、スティーヴン・キング原作の傑作ホラー『ミスト』も、劇中、音楽がほとんど使用されていなかったはずだ。いや、私の記憶がたしかならば、劇中において一切音楽が使用されてなかったと思う。いずれにせよ、両作品ともに音楽を極力使用しないことによって、ある種のドキュメンタリーを観ているような寂寞とした生々しさが表現されているように思う。

ちなみに『エイリアン』や『ミスト』とは真逆に、劇中ひっきりなしに音楽が流れていた映画として印象に残っているのが『踊る大捜査線』の最終作である。

つうか、あの映画に関してはもはや

「やたらと音楽がかかっていて、ストーリーに集中できねえよ!」

という印象しかない。

……と、書いたところで、

「えーっと、これは……ラストで深津絵里が○○になったってことでいいの…?」

とか、映画館でものすごくムカムカしながら観たのを不意に思い出してしまった。

ストーリーそのもののひどさに加え、

「ここもか!」

「いや、ここでもかよ!」

といった具合に四六時中、ありとあらゆる場面で音楽が流れまくっていて、なんだかやたらとムカムカしながら鑑賞するハメになってしまったのだった。

音楽を流すにしても、もう少し控えめに流されていたら、このようにわざわざ思い出す必要もない記憶を思い出さずに済んだかもしれない。私は音楽をこよなく愛する人間であるが、なんでもかんでも流しゃいいってもんでもないのである。

話を『エイリアン』に戻すと、そんな中でも私の記憶に強烈かつ鮮明に残っていたのは、じつはシガニー・ウィーバーの「半ケツ」であった。

このシーンに関してだけは観る前からはっきりと覚えていた。

細かいあらすじやエイリアンの造形なんかよりも、よっぽどはっきりと覚えていた。

思春期もしくはそれに近い時期の多感な男の子であった私にとってはグロくてキモいエイリアンなんかよりシガニー・ウィーバーの半ケツのほうが全然印象的であったということだ。むろん、そんなことを威張ったふうに書いてどうするっていう話である。