F1レーサーの歌を聴きたい奴、ちょっとこっち来い

不幸にもこのテキストに眼を通してしまった方がもしいらっしゃったとしたら、ここにひとりの寿司職人がいることを、まずはご想像していただきたい。

彼ことこの寿司職人、寿司を握らせることに関しては当代きっての腕の持ち主。そのため、彼が営む寿司店は、政界・財界など、各界のいわゆるVIPどころがこぞって御用達にしているほどである。

そんな彼だが、なにがあったか知らないが、ある日いきなり

「CDを出したい」

と、こんなことを言ってきた。

つまり、「己が歌唱する歌を、CDにして世に発表したい」というのだ。

ちなみに彼の歌は、特段上手くもなければ、耳を塞がなければならぬほどの音痴というわけでもない。

いや、どうせならマライア・キャリーばりの7オクターブの美声を持つ寿司職人、といきたいところだが、さすがにそんな寿司職人がいるとは到底思えないので、ここはひとつ、「寿司業界」という枠において最高峰に位置する歌唱レベルの寿司職人、と考えていただきたい。

さて、問題である。

Q.彼ことこの寿司職人は果たして、己が歌う歌を、CDにして世に発表する必要があるか否か。

答えは「否」。

なぜなら、当たりまえの話だが、「寿司職人は寿司を握っていればいい」からである

そしてそれは、警官や町の不動産屋のオヤジ、はたまた一流小説家であろうと同様のことである。基本的に彼らが己の歌を公に発表する必要は、当然ながら1ミリもないのだ。

ここに一枚のCDがある。

 

SATORU NAKAJIMA

SATORU NAKAJIMA

 

 

中嶋悟――言わずと知れた日本人F1ドライバーのパイオニア、まさに伝説の男だ。

その中嶋が、なんとCDを出していたのだ。

「F1レーサー=歌」

いったい中嶋のどこをどう探せばCDを出す必要性があるのか、まったくもってわからない。おそらく、「金になる」と踏んだ芸能関係者が中島に話を持ちかけて実現したのだろうが、それにしても意味がわからない。

しかも本作に収録されている楽曲のおよそ半数、つまり「中嶋悟モノローグ」と題された①③⑤⑦⑨のトラックに関してはまず歌ですらないのだから驚く。これらはすべて、少年時代から本作収録時(F1引退直後らしい)までのごく個人的な中嶋の思い出話というか、要するに中嶋本人の「語り」が、穏やかなインストゥルメンタル・ミュージックをバックに繰り広げられているのだ。

この中嶋ファンにとってはじつに有り難い、そして中嶋についてとくに関心がない者にとってはなんら有り難くもない、ある意味衝撃的な楽曲を耳にして、あるいはひょっとしたら裏切られたと憤慨される方が中にはいらっしゃるかもしれないがどうか安心してほしい。

もちろん、中嶋が歌を披露した楽曲はある。

トラック④、『悲しき水中翼船』と題された楽曲がまさしくそれである。

このいかにも温厚な中嶋らしい、素朴であたたかみに溢れた、カラオケでいえば中レベルの、要するにスナックかなんかで酒飲んで酔っ払ったオヤジがさもごきげんな感じで歌っているような楽曲を耳にして、あるいはまたもや裏切られたと憤慨される方が中にはいらっしゃるかもしれないが、そんな方は本作の内容に憤慨する前に、このアルバムを聴いてしまったこと自体をまずなによりも後悔すべきであろう。