「ああ、自由になりたいな……」
誰しもが一度はそう考えたことがあるはずだ。
「いっそこんな会社なんか辞めて……」
「もうこんな家庭から離れて……」
まあ、「自由になりたい理由」は大概このようなものだろう。
「無人島に行きたいな……」
ここまできたら、ある意味、末期症状である。
にしても甘いと思う。なんだかわからないが、とにかく甘いと言わざるを得ない。
そんなものは所詮、「頭で考えた自由」でしかない。本当の自由ってのはもっと違うものなんじゃないかと私は思う。なんというか、もっと「剥き出し」なやつだ。
私は「本当の自由」を体現している人物を知っている。子どもである。
先日、弁当を買いにほっともっとに行ったときのことだ。
「えっと、デミハンバーグ弁当で」
「お時間20分少々かかりますが大丈夫ですか?」
一瞬、
「えー……20分かよ……」
と躊躇しかけたが、
「まあ、晩飯のピークの時間帯だしな……」
と思って諦めた。
ここ最近いろいろあって私はひどく疲れている。あらためて他の店へ行くのは面倒だ。結局言われたとおり店内で20分少々待つことした。
それにしても20分は長い。仕事帰りのくたびれたおっさん、もうすっかり肌寒くなってきているというのになぜか半ズボン姿の青年、やたらと騒がしい5人組のおばはん軍団など、様々なタイプの客が弁当を求め続々と店に入ってくる。
やがて子どもづれのおかあさんがやってきた。子どもは男の子で小学校低学年ぐらいだろうか。弁当を注文した親子に店員はやはりこう言った。
「お時間20分少々かかりますが大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
おかあさんはそう答えた。
3つある席はすべて埋まっている。親子は店内の隅のほうへ向かった。どうやらあそこで待つことにしたらしい。
すると子どものほうがやにわに地べたに座りだした。こともあろうに体育座りである。
「ぎゃー」
だの
「うぇー」
だの喚きながらポケットから取り出したスマホをいじくっている。ゲームでもしているのか。
まさに「本能の赴くまま」という感じだ。これぞ「剥き出しの自由」である。
「かあちゃん、注意しねえのかよ……」
などと思いもしたが、なんというか、
「ああ、子どもはいいなあ……自由で……」
と私は感心してしまった。
数分後、べつの親子が店に入ってきた。やはりおかあさんと小学校低学年くらいの女の子だった。
この女の子もすごかった。なにを思ったか、中に入ってくるなり店内の壁に何度も体当たりしているではないか。
いったいどういう了見でそんなことをしてるんだおまえは。
いや、理由なんてないだろう。しいて理由を挙げるなら、「ただ単に、壁に体当たりをしたかったから」に違いない。まさに「本能の赴くまま」という感じだ。これぞ「剥き出しの自由」である。
やっぱり子どもはこうでなくっちゃな。しみじみ思った。
くたびれた顔して壁に背をもたれながら弁当が出来上がるのを待っている子どもなんて「本当の子ども」じゃない。大人になれば常に「マナー」やら「常識」やらがついて回るようになる。本能の赴くままに剥き出しの自由を謳歌するのは子どもの特権だ。
10数年前のことである。イオンのエレベーターに乗り込んだら先に入っていた男の子とふたりっきりになった。
やはり小学校低学年ぐらいの少年だった。少年はエレベーターの階数ボタンに指を差し出すとこう言った。
「おじさん、何階?」
その頃、私はまだ一応20代であり、「おじさん」なんて他人から、ましてやはじめて顔を合わせた相手から面と向かってそんなことを言われたことはただの一度もなかった。
ああ、ゲンコツで殴ってさしあげたい。殴らないまでも金玉モミモミして悶絶させてさしあげたい。
「ああ……うん、3階。ありがとう」
もちろんゲンコツで殴りも金玉モミモミもしなかった私は微笑みながら礼を言った。
子どもだからってなに言っても許されると思うなよ。
思わずそう言いたくもなったが、これでこそ子どもだと思った。
本当にこどもは自由でいい。うらやましい。出来ることなら私もほっともっとで奇声を上げながら地べたに座ってスマホをいじりたいし、壁に体当たりもしたいし、エレベーターで一緒になった見知らぬおにいさんに「おじさん、何階?」と声をかけたい。だが、それをするのにはいささか年を取り過ぎてしまった。
ああ、子どもに戻りたい。