「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている」という慣用句はよく知られている。
ちなみにウェブの辞典によると、意味・注釈については下記のとおりである。
【鳩が豆鉄砲を食ったよう】
・鳩が豆鉄砲を食ったようとは、突然の出来事に驚いて、目を丸くしているさま。
・鳩が豆鉄砲で撃たれ、驚いて目を丸くしている様子から、思いがけない出来事に驚いて、きょとんとしていることのたとえ。
出典:「故事ことわざ辞典」
もちろん私自身もこの言葉は物心ついた時から知っていたし、意味もなんとなく理解していた。
まあ、おもしろい表現だとは思う。
思うが、とはいえ、頭の中でイメージしやすいかといえば、それは甚だ疑問であると言わざるをえないだろう。
なにしろ、鳩に向かって豆鉄砲を撃っている奴なんていままで生きてきて見たことがないからだ。
だいたいからして、そもそも鳩に表情というものがあるのだろうか。私は鳩をまじまじと観察した経験がないのでよくわからない。ましてや「豆鉄砲」の存在すら知らない若い世代にとっては、むしろ意味が伝わりにくい表現なのではなかろうか。
で、話はいきなり飛ぶが、私の古くからの知り合いでX君という人間がいる。
彼は薄毛で悩んでいた。
全体的に毛量が少なく、水に濡れたら最後、もう、かなり残念な状況になってしまう。
ある程度の歳を召しているなら諦めがつくかもしれないがX君はまだ30代である。いわゆる若ハゲというやつだ。
彼なりにさまざまな育毛剤やら発毛剤やらを調べ購入し試してみたものの、薄毛は一向に改善しなかった。
ハゲは男にとって永遠のヒットマンである。もちろん、私にだっていつハゲという名のヒットマンが襲いかかってくるかわからない。私はX君に心から同情していた。
ある日、X君とひさしぶりに会ったときのことだ。
なんだかX君の目がいつになくキラキラしていた。
X君は言った。
「いまさ、新しい育毛剤使ってるんだよ」
「へぇ~。どんなやつなの?」
「中国のやつでさ、じつはこれがなんと、タダなんだよ」
パチンコ雑誌の通販広告で見つけたという。
育毛剤の代金は無料。ただ、商品の送料代を払う。それだけで毎月決まった時期に商品が届くとのこと。
「すげえだろ。なんてったってタダなんだぜ」
「あー……。えーっと、それで、効き目はあるの…?」
「う~ん、髪が全体的に気持ち太くなったような感じがするかな。まあ、まだ使って一か月だからね。効かなきゃやめりゃあいいんだし。どっちみちタダなんだから得だよ」
たしか送料代は1500円ぐらい取られていたはずだ。
どういうカラクリがあるのかわからんが、そんな馬鹿な商売があるものか。きっとその中国の育毛剤とやらは原価がほぼゼロ円に近いようなとんでもない紛い物に違いない。あきらかにX君は騙されている。
私はX君に躊躇なく言った。
「そんなもんやめろよ! そりゃたぶん偽物だぞ、おまえ。騙されてるんだよ!」
「…えっ!? なんで? だってタダなんだぜ?」
そう返してきたX君の驚きと困惑が入り混じったような表情、まさしくそれは「鳩が豆鉄砲を食ったような顔」としか言いようがないものだった。
「ああ…。これが“鳩が豆鉄砲を食ったような顔”ってやつか」
と私は思った(その後、「育毛剤」の購入はどうにか説得してやめさせた)。
さて、育毛剤詐欺の問題はとりあえず解決したものの、X君の悩みは尽きない。
X君はとにかく金遣いが尋常じゃなく荒い。
とくにパチンコに目がない。仕事の給料が入るとすぐに散財してしまうのはもちろん、金がなくなっても消費者金融から借金してまでパチンコ屋へ通い続けてしまう。
私のところにもしょっちゅう金の無心にやってきた。
「3万貸してほしい」と言われ貸してやり、給料が入ると2万返しにやってくる。しばらくすると今度は「悪いけど2万貸してほしい」と言ってきて、仕方なく貸してやる。で、また次の月、給料が入ったはずなので催促すると「今回は一万で勘弁してくれ」と、涙目で懇願され、数日後、「ごめん、一万貸して」と言われ、「わかったよ」と、やはりまた貸してしまう。
返してくれることは返してくれるが、なぜだか決まって全額返済はしてくれない。そんな状況がしばらく続いていた。
「貸さなきゃいいじゃないか」
というご意見はごもっともだ。
とはいえ、X君は生来の人たらしというか、どこか憎めない男なのだ。それで、金持ちじゃないくせに、私もついつい貸してしまう。
気づけば金を貸しては中途半端に返されるの堂々巡りを続けて一年以上が経っていた。
さすがに私もキレてしまった。
「テメエ、いいかげんにしろや! 中途半端に返すのを繰り返しやがって! ちゃんと金返す気ねえんだったら殴らせろ! もしくはチ○毛剃れ! パイパンな! どれか選べや!!」
普段はすこぶるおとなしい私がキレたのが効いたのか、X君はようやく貸していた金を全額きっちり返してくれた。
それから数日後。
X君が突然、私の家にやってきた。
「金を貸してほしい」という。
「なんでだよ! テメエ、こないだやっと全部返したばっかだろ!」
「えっ!? いや、だって、ちゃんと全額返したからまた借りてもいいだろと思って。…なんでダメなの?」
やはり「鳩が豆鉄砲を食ったような」としか言いようのない顔をしてX君は言った。
X君は「鳩が豆鉄砲顔」の達人だと思った。こんなおもしろい奴はなかなかいない、と思った。
そして、「鳩が豆鉄砲顔」をよくする奴はたぶん馬鹿なのかもしれない、とも思った。