映画『ノーマーシィ 非情の愛』‐キム・ベイシンガーとリチャード・ギアの共演作。けっしてオアシズの大久保さんと照英が共演している作品ではない‐

 

前々からどうも釈然としない部分を感じていた。どの映画に出ていてもやたらといい女扱いされているキム・ベイシンガーに対してである。

いや、たしかにお綺麗な女優さんである。間違ってもブスではない。

しかし、どうも腑に落ちない。違和感が残る。一体、どういうことなのか。

つい最近、その違和感の正体が判明した。

「大久保さんに似ている」

当然、大久保さんといったら、お笑い芸人のあの大久保さんのことだ。

「いてまうぞワレぇ! キム・ベイシンガーのどこが大久保さんじゃあ!」 

そんなふうに憤る方があるいはいらっしゃるかもしれない。

たしかにB'zの松本と志村けんのように、100人中100人が「そっくりじゃん!」と述べるような似っぷりではない。

キム・ベイシンガー=「美人」、大久保さん=「そうじゃない人」。

おそらく100人中98人がそう言うだろう。私も同意見である。

ただ、美人は美人だが、ちょっとバランスが崩れれば、たちまち大久保さんになってしまう。

そういう危うさの上で成り立っているお顔であるように思う。

で、リチャード・ギア。彼は照英に似ている。

「天下のプレイボーイであるギア様をつかまえて、なにヌカしとるんじゃあ!」

やはりそんな異論が噴出しそうであるが、ギア=照英に関しては自信がある。

ためしに目元を若干細長くしたギアをイメージしていただきたい。間違いなく頭の中に完璧な照英が出来上がるはずだ。

本作『ノーマーシィ 非情の愛』は、そんな大久保さん似、照英似のアメリカ人男女によるラブ・ドラマだった。仮にこれがキムとギアではなく本物の大久保さんと照英の共演作だったら、ラブはラブでも「ラブ・コメ」のほうになってしまったことだろう。

一体、それはどういうわけなのか。

その要因は、キムとギア、両者が醸す色気にあると見た。

特別、美女でも美男でもない、むしろブサイクだったりするのに、なんだかやたらとモテる人がいる。彼・彼女らから抗おうにも漂ってくる色気のせいである。

むろんキムやギアをブサイク呼ばわりするつもりは毛頭ないが、どの映画でもキムが絶世の美女のごとく扱われていたり、ギアが数多の作品でプレイボーイの役をこなしているのは、両者のこの並外れた色気によるものだろう。

謎めいた悪女風のキム、そんな彼女を追う立場の刑事ギア。正反対の立場であったふたりが徐々に惹かれあってゆく。そして繰り広げられる愛の逃避行。夜のシーンが多かったり、ほんのり霧がかった映像であったり、いわゆるフィルム・ノワール的な表現がそこかしこから見受けられる。全編、幻想的で儚げなムードが漂っており、キム、ギアのセクスィーオーラがドラマを大いに盛り立てる。大人のラブ・ドラマ。カテゴリー分けするなら、そんなような作品であった。

まあ、とくになにかを考えさせられるような映画ではない。雰囲気ありきの映画と言ってしまえばそれまでだが、「でも、いい感じの雰囲気出れせば映画として勝ちじゃね?」と思う。

それにしても、夜のシーンになるとやたらと煙たい。スモークを多めに焚いているのだろうか。サンマを焼いている煙だったら台無しになるところだ。