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映画『グラン・トリノ』‐「虚構」に酔いしれているところに突如として現れる「現実」‐

グラン・トリノ』は大好きな映画である。なにより「俳優クリント・イーストウッドの引退作」(後に撤回したが)という意味で、これ以外は考えられないと言っていいほどの完璧な結末であった。

しかしながら、残念だった部分がないではない。

映画の最後に流れる主題歌だ。

その冒頭の一小節をイーストウッド本人が歌っているのである。

いや、イーストウッドの歌がジャイアン並にひどいというわけではない。むしろ渋くて味わい深い歌声であると思うし、ジェイミー・カラムが作った楽曲自体も、美しくもせつなく、なにより映画の内容に見事にはまっていた。

しかし、「あそこ」でイーストウッドの歌はないだろう。往年の『ごっつええ感じ』のコントではないが、「お前が歌うんかい!」という感じだ。

まあ、あそこでいきなり「モン族のデブ」が歌いださなかっただけ、まだマシだったのかもしれないが、いずれにしろイーストウッドはやはり歌うべきではなかったと思う。

なにしろ、「ドラマ」という「虚構」に酔いしれているところに突然、「主演俳優の歌」という「現実」が舞い込んでくるのだ。興醒めにもほどがあるというものである。

主演俳優が主題歌のほうもセットでこなしているので代表的な作品といえば、往年のジャッキー・チェンの映画であろう。「劇終」という文字が出てきた後、エンドロール、本編のNGシーンと共にジャッキー歌唱の主題歌が流れてくる光景はファンにはお馴染みだ。

ジャッキーの場合、「お前が歌うんかい!」にならないのは、ジャッキーの映画が基本的に「ジャッキーのジャッキーによるジャッキーファンのための映画」となっているからだろう。ようするに、ストーリー、アクション、本編終了後に流れるNGシーン、本人歌唱の歌、それらはジャッキー映画というテーマパークの中のアトラクションとして成立しているのである。

織田裕二が主演しているドラマにほぼ漏れなく「本人歌唱の主題歌」が付いてくることは、多くの日本国民が認識していることだろう。そして、多くの日本国民が「織田裕二に歌を求めていない」ということも、おそらく織田裕二以外にはわかりきったことだと思う。

織田裕二は主演ドラマのオファーが来た場合、基本的に「主題歌も自分に歌わせろ。でなきゃ、やらない!」という姿勢であるという話を、以前、なにかの雑誌の記事で読んだことがある。ドラマ関係者の困り顔が目に浮かぼうというものだ。もし本当の話なら織田裕二はドSに違いない。

しかし今となっては『世界陸上』など、もはや「競技」と「織田裕二の歌」をセットで堪能しないと番組を観た気がしない。思えば俺も織田さんには大いに鍛えられたものだ。

ただ、映画となるとさすがに勝手が違うのか、いくら主演している作品であっても歌を任されることは稀らしい。例外は『踊る大捜査線』の「Love Somebody」だが、あれはご存知のとおり、もともとドラマだったものが映画に発展した作品である。

いつか、監督・主演・脚本・主題歌までこなした「オール織田裕二」な映画を怖いもの見たさで観てみたい……ような気がしないでもない。