読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マラソンはもう飽きた‐「24時間テレビ」考察

毎年恒例の日テレ『24時間テレビ』のチャリティーマラソンランナーはDAIGOが走ることになったらしい。

 

www.oricon.co.jp

 

『24時間テレビ』を今までほとんどまともに見たことがない私であるが、とりあえず思うのは、なんであれって毎回放送終了間際の「ちょうどいい時間帯」にゴールするのか、という前々からの疑問である。

当然、あの番組の一番の心配事というのは、

「マラソンのランナーが放送時間内にゴールできるか」

ということなのだろう。

でまたそれを、ちゃんと見たことないのでよくわからないが、たぶん司会を担当しているジャニーズのアイドルとかアナウンサーなんかが

「さあ、間に合うのか?!」

「間に合ってくれ!」

「無理? やっぱ無理? 間に合わない?!」

「いや間に合えよ!」

なんつった感じで、番組中何度も煽ったりもするのだろう。

実際、数年前に山田花子が走った時などは、結局間に合わずに番組終了という事態にたしかなってたりもしていたし、であるから、あの「間に合ってくれ!」という会場中の叫びもまんざら嘘ではないはずである。

ただ、今回のDAIGOの場合、健康体の男子だし、年齢的にも30代で若いほうだ。

となると、番組関係者の胸中には「間に合うか?」とは逆の、つまり「早く着きすぎないか?」という心配があるだろうはずで、走っている最中にスタッフからの連絡で

「やばいですよ、DAIGOさん! このままだと早く着きすぎちゃうんで、ちょっとうんこ行きましょう、うんこ!」

「すいませんDAIGOさん! ちょっとまだ早すぎです! もう一回、うんこ行っときましょう!」

みたいな、そういう「“トイレタイム”と称したせこい時間調整」のようなことが影で行われる可能性があるのでは、と勘ぐる私は感動知らずの大馬鹿野郎なのでしょう。

で、感動知らずな人間としてついでに言わせてもらうと、「なぜマラソンで感動?」という、そもそもの疑問もある。

いや、「マラソン」→「頑張る」→「感動」ということなのだろう。それはわかる。

わかるが、ただ、普段行われているマラソン中継を見ればわかるとおり、相手を抜いたり抜かれたりの緊迫する場面は大概がレース終盤のほんのわずかな時間のみであり、本来マラソンというのはとても地味な競技である。

まあ、あの番組のあれは他人と競っているわけではないので、とくに抜いたり抜かれたりする必要はないわけだが、それにしてもマラソン以外にもいくらだって頑張りようがあるはずで、なぜあそこまでマラソンにこだわり続けるのかがよくわからないのである。

たしかにあのマラソン中継に最初に踏み切ったときには、それはもうテレビ局初となる前代未聞の斬新な試みであったはずで、純粋で無垢な視聴者を巻き込んだそれはある意味、「本物の感動」の一場面として、ほとんど全国民的といっていいほどの範囲で機能していたのだろう。

しかしながら、テレビの中で繰り返される感動の嵐のおかげで、いつのまにかすれっからしの感動インポになってしまった私のような人間にとって、

「マラソンスタート」→「頑張って!」→「なんか色々あってペースダウン」→「いやいやそれでももっと頑張って!」→「色々あったけど、なんとかあとちょっとでゴール」→「『負けないで』合唱」→「ゴール」→「『サライ』合唱」

という例の光景はマンネリのきわみでしかなく、同時にオチが決まったコントを見せられているようでもある。

まあ、ようするになにが言いたいのかというと、マラソン飽きた(いや、だからちゃんと見たことありませんが)。

たとえば、大食い番組とか昔流行ったドミノ倒し。あと「マスターベータソン」という、マスターベーションの継続時間、回数、飛距離などを競い、寄付を募るという驚くべきチャリティーイベントが毎年欧州各地で開催されているらしいが、まあ、大食いやドミノ側からしたら一緒にされたかないだろうが、傍から見ればどちらも「無意味」で「まぬけ」にしか思えない行為である。

であるが、大食いやドミノはもとより、「マスターベータソン」にしたって、選手として出場した人らはもちろん、それを興味本位で眺めていた観覧者にしても、最後の最後にはやっぱりみんな揃って「感動」に行き着いたはずで、「感動する技術」にかけては我々人間は稀有な才能の持ち主のはずだ。

それでもマラソンにこだわるというなら、24時間うまい棒食いながらマラソンするとか、ほんのちょっとの工夫次第で新たな感動の地平を切り開けるはずだし、なにより、本来クリエイティヴであるべき番組作りをないがしろにし、いつまでも予定調和を繰り返すことこそが感動と程遠い行為なのではないか、と、最後に硬派なテレビコラムっぽいことを書いてみた。